航空整備の判断をめぐる社内調査が覆り、25年以上の経験を持つ整備士が職を失った。豪公正労働委員会(Fair Work Commission、FWC)は、シンガポール航空機の出発前点検を担当したモハマド・イスラフェル・カーン氏について、勤務先のHeston MROによる解雇を不当と認定し、4万豪ドル超の補償を命じた。

雇用主はシンガポール航空ではない。Heston MROは航空会社から機体のライン整備を請け負う事業者で、カーン氏は同社の航空整備士だった。争点となったのは、機体の故障表示を消すために行った再起動の妥当性と、その後の調査・解雇手続である。

複数の故障表示──再起動で17分遅延

発端は2024年11月、ブリスベンから出発するシンガポール航空機に複数の故障表示が出たことだった。カーン氏は操縦士の同意を得て、機体の電源をいったん落として再起動した。表示は消え、機体は出発したが、この対応で17分の遅延が生じた。

FWCの判断文によると、Heston MROの最初の調査は懲戒や解雇を勧告せず、品質・安全部門の責任者と最高経営責任者もその結論を承認した。一方、顧客であるシンガポール航空は、当該の故障に機体全体の電源遮断は不要で、整備士が定められた手順より経験と判断を優先したと問題視した。

旅客機の操縦席に並ぶ計器と操作盤(イメージ)
故障表示への対応をめぐり、最初の社内調査と再調査で結論が分かれた。(イメージ/Photo by Moritz Mentges on Unsplash)

再調査で評価が一転

Heston MROはその後、新たな品質・安全責任者の下で調査をやり直した。再調査は、カーン氏が合意済みの手順から無謀に逸脱したとする内容で、最初の調査とは反対の結論になった。同社はこの結論を根拠にカーン氏を解雇し、シンガポール航空も同社機を扱うカーン氏の整備承認を取り消した。

豪メディアの報道では、カーン氏には解雇を決める前に具体的な理由が示されず、本人に不利な再調査報告へ応答する機会も与えられなかった。航空安全を理由に厳格な調査を行うことと、対象者へ申し立ての内容を知らせて反論の機会を設けることが、別の問題として問われた。

解雇は不当、復職は認めず

FWCは、再起動が悪意から行われたものではなく、カーン氏に遅延を起こす意図もなかったと判断した。最初の調査が規程違反を認めず、警告や解雇以外の対応も検討されなかった事情を踏まえ、解雇は行為に比べて重すぎると結論づけた。解雇理由を事前に示さず、応答の機会を与えなかった点も不公正とされた。

ただし、FWCは復職を命じなかった。審理では、カーン氏がHeston MROに申告しないままVirgin Australiaで勤務していた事実が明らかになった。委員会は、この兼業によって雇用関係に必要な信頼が損なわれ、復職は適切でないと判断した。解雇の不当性を認めながら、救済を復職ではなく4万豪ドル超の金銭補償とした理由である。

報道によると、Heston MROは判断に失望したとして上訴する意向を示した。ただし、上訴が正式に受理されたことや、その後の判断を示す公的資料は8月9日時点で確認できていない。補償命令を事件の最終確定結果とみなすのは早い。

日本の解雇ルールとは別制度

この判断は豪州のFair Work Act 2009と個別の証拠に基づく。日本の雇用関係で同じ事実があっても、豪州の補償額や救済方法がそのまま採用されるわけではない。

厚生労働省の公式説明では、日本の労働契約法16条は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当と認められない解雇を権利濫用として無効とする。労働基準法上は原則として30日前の予告または不足日数分の解雇予告手当が必要で、労働者が解雇理由の証明書を求めた場合、使用者は交付しなければならない

豪州の委員会が示した「不当解雇への補償」と、日本法上の解雇の有効性や予告手続は同じ制度ではない。本件から読み取れるのは、安全に関わる職場であっても、行為の評価、処分の重さ、本人へ反論の機会を与えたかが別々に検討されたという点だ。

よくある質問

シンガポール航空が整備士を解雇したのか
違う。カーン氏の雇用主は整備受託会社Heston MROで、解雇を決めたのも同社だ。シンガポール航空は顧客として最初の調査結果に異議を示し、同社機に対するカーン氏の整備承認を取り消した。

なぜ機体を再起動したのか
出発前に複数の故障表示が出たため、カーン氏は操縦士の同意を得て電源を落とし、機体を再起動した。故障表示は消えたが、出発は17分遅れた。

不当解雇なのに、なぜ復職しなかったのか
解雇理由とされた機体再起動への評価とは別に、審理で未申告の兼業が明らかになったためだ。FWCは雇用関係の信頼が損なわれたとして復職を適切でないと判断し、金銭補償を選んだ。