オーストラリア連邦の「反ユダヤ主義と社会的結束に関する王立委員会」(Royal Commission on Antisemitism and Social Cohesion)が8月上旬にシドニーで開いた公聴会で、暴力的過激主義の対策プログラムへ送られるケースがこの3年で増えたとの証言が相次いだ。要因として挙がったのは、中東の紛争がオーストラリア国内に跳ね返るネット上のコンテンツ、経済的な困窮、そして互いに相いれないはずの思想が一人の中に同居する不安定な信条である。いずれも委員会が聴いた証言であり、委員会自身の結論ではない。
王立委員会は英連邦諸国に共通する制度で、オーストラリアでは政府が設置できる調査機関のうち最も強い権限を持ち、証人を召喚し、証拠として文書の提出を命じる権限を備える。日本にこれと同じ位置づけの制度はなく、行政が設ける有識者会議や第三者委員会とは強制力の面で別物だ。今回は第8回の公聴会にあたり、8月5日から14日までシドニーで開かれている。宗教や極右をはじめとする思想に動機づけられた過激主義と過激化の経路、オンライン環境の役割、憎悪をあおる説教者や権威者の影響、法執行機関の対応、そして早期介入や離脱支援の実務が対象範囲に入る。
ネット上のコンテンツと「混ざり合う」思想
ビクトリア州の暴力的過激主義の予防・対策戦略を率いる法心理学者のケリー・ミシェル氏は、紛争が始まってからの3年間で州の対策プログラムへの照会が増え続けており、対象者の多くが中東で起きている紛争と、それがオーストラリア社会に跳ね返る様子に関わる内容に触れていたと証言した。増加はガザでの戦闘の開始以降に続き、ボンダイビーチの事件のあとにさらに跳ね上がったという説明も出ている。
現場の担当者が直面している変化として、ミシェル氏は思想の輪郭が崩れている点を挙げた。相談に上がる人物が示す信条は「混ざり合い、はっきりせず、不安定な」状態にあり、本来なら別々だったはずの思想の断片を取り出して組み合わせている、という趣旨の証言だ。どの系統の過激主義として扱うかを決めてから支援策を選ぶ従来のやり方が、そもそも入り口で成り立ちにくくなる。
経済的な困窮とミソジニーも俎上に
別の日の公聴会では、要因の幅がさらに広がった。オンライン上の過激な運動、若年層のあいだで高い割合を示すミソジニー、さらに経済的な困難が、オーストラリアの過激化リスクに流れ込んでいるという指摘が出た。研究者のサラ・メーガー氏は、自身の研究がミソジニーと暴力的過激主義の予測を結びつけていると述べ、幼い時期からの「敬意ある関係」教育を政府が検討するよう促した。
西オーストラリア州警察のジョアン・マッケーブ氏は、2015年から続く州の介入・支援プログラム(WA Intervention and Support Program)について証言した。任意で、本人の同意にもとづき、罰を科さない枠組みだと位置づけたうえで、過激な信条を持っているかどうかそれ自体より、行動に表れる兆候やエスカレートの危険、実際に生じうる危害を見るのだと説明した。マッケーブ氏によれば、プログラムは思想の分類に重心を置く手法から離れ、対象者の抱える必要に応じる型へ移ってきた。
反対尋問が招いた反発と、委員長の説明
同じ一連の公聴会は、証言の中身とは別のところでも波紋を広げた。親パレスチナ団体の代理人を務める弁護士ラグニ・マトゥール氏が、ニューサウスウェールズ州ユダヤ人代表評議会(NSW Jewish Board of Deputies)会長のデービッド・オシップ氏に対し、2023年10月にシドニーで行われた抗議行動をめぐる同氏の見解を追及した。ユダヤ人社会から強い反発が起き、ニューサウスウェールズ州のクリス・ミンズ首相は質問の進め方を「失望した」と評した。
委員長を務めるバージニア・ベル氏は翌日、マトゥール氏が「この王立委員会を乗っ取ったわけではない」と述べ、オシップ氏への反対尋問を限定的に認めたのは手続的公正の要請だと説明した。オシップ氏の証言によって立場に影響を受ける団体には、その意見が置く事実の土台を争う機会が与えられるべきだ、というのがベル氏の整理である。
この週の審理では、2023年10月9日にシドニー・オペラハウス前で行われた抗議行動も取り上げられた。ニューサウスウェールズ州警察は専従の捜査態勢を組み、防犯カメラや装着型カメラなどの映像を精査したうえで、音声の法医学的な分析を専門家に委ねた。約200時間分の記録を調べた結果、「ユダヤ人をガス室へ」という言葉が唱えられたとする主張を裏づける証拠は見つからず、警察は実際の文言を「ユダヤ人はどこだ」と結論づけている。反ユダヤ的で侮辱的な言葉そのものは、別に記録されている。
報告書は事件から1年の日が期限
委員会の出発点は、2025年12月14日にシドニーのボンダイビーチで起きた銃撃だ。ユダヤ教の祝日ハヌカーの祝賀行事が襲われ、15人が死亡した。実行したのは父と息子の2人で、オーストラリア政府はイスラム国の思想に動機づけられた攻撃だと説明している。父親は現場で警察に射殺され、息子はテロ行為や殺人などの罪で訴追された。
アルバニージー首相が2026年1月8日に設置を表明し、委員長にはオーストラリアの最高裁にあたる高等法院の元判事バージニア・ベル氏を起用した。報告書の提出期限は2026年12月14日で、事件からちょうど1年にあたる日である。反ユダヤ主義の広がりとボンダイビーチ事件の経緯を調べるほか、治安と社会的結束についての提言をまとめる役割を負う。
よくある質問
王立委員会とはどんな制度なのか
英連邦諸国に共通する公的な調査の枠組みで、オーストラリアでは政府が設けられる調査機関のうち最も強い権限を持つ。証人の召喚と、証拠としての文書提出の命令が認められている。日本に同じ位置づけの制度はない。
今回挙がった要因は委員会の結論なのか
違う。8月上旬の公聴会で証人が述べた内容であり、委員会としての判断ではない。最終的な報告書の提出期限は2026年12月14日で、本稿の執筆時点では提出されていない。
照会が何件増えたのか
公聴会での証言は増加の傾向を述べたもので、具体的な件数は示されていない。委員会の正式な統計として公表された数字も、本稿の執筆時点では確認できていない。
出典・参考資料
- Hearing Block 8, Sydney(Royal Commission on Antisemitism and Social Cohesion)第8回公聴会(2026年8月5日〜14日、シドニー)の日程と対象範囲。宗教・極右その他の思想に動機づけられた過激主義、オンライン環境の役割、法執行機関の対応、早期介入と離脱支援の実務を扱うと明記している
- Reverberations from overseas conflicts drive extremism(The Canberra Times(AAP))ネット上の過激な内容に触れて対策プログラムへ送られた人数が過去3年で増えたこと、ケリー・ミシェル氏の証言、反対尋問をめぐる委員長の対応を報じた通信社配信記事
- Economic hardship among potential drivers of extremism(Illawarra Mercury(AAP))オンライン上の過激な運動、若年層のミソジニー、経済的な困難が過激化のリスクに影響するという公聴会での指摘と、サラ・メーガー氏の証言
- Minns Criticises Pro-Palestinian Lawyers' Tactics(J-Wire)ニューサウスウェールズ州のクリス・ミンズ首相が、ユダヤ人団体代表への反対尋問の進め方を「失望した」と述べた経緯
- Jewish peace protestor to Royal Commission: 'Never experienced a jot of antisemitism'(Michael West Media)委員長バージニア・ベル氏が「この王立委員会を乗っ取ったわけではない」と述べ、手続的公正を理由に限定的な反対尋問を認めたと説明した場面
- Australia's royal commission into antisemitism opens after Bondi Beach mass shooting(NBC News)王立委員会がオーストラリアで最も強い権限を持つ調査機関であること、証人の召喚と文書提出の命令権、元高等法院判事バージニア・ベル氏の起用、2026年12月14日という報告期限