健康データの非識別化(De-identification)は、本人とデータの結び付きを弱める加工と運用の総称だ。氏名や患者番号を削除しても、生年月日、受診日、居住地域、まれな病歴を外部情報と照合すれば、本人に結び付く経路が残る。日本の個人情報保護法は、加工後の状態を仮名加工情報と匿名加工情報に分け、識別や復元の余地、対照表の扱い、第三者提供の規律を変えている。医療AI(Artificial Intelligence)へ渡す前に見るべきなのは、名前の欄がないという外見ではなく、誰がどの情報と組み合わせ、どの環境で扱うかである。

データ欄と遮蔽記号、プライバシーの段階を組み合わせた図(イメージ)
本人との結び付きを弱めるには、直接識別子と、組み合わせで効く項目を分けて扱う。

「去識別済み」だけでは法的な状態が決まらない

健康データには、氏名や患者番号のように単独で本人を指す項目と、複数を組み合わせると対象を絞れる項目が混在する。さらに、診断名や検査値は本人を直接指さなくても、漏えいしたときの不利益が大きい。個人情報保護委員会と厚生労働省の現行ガイダンスは、診療録などに記載された病歴、診療・調剤情報、健康診断の結果、保健指導の内容を要配慮個人情報の例に挙げ、取得と個人データの第三者提供には原則として本人同意が要ると整理している

加工後の呼び名も分ける必要がある。氏名を仮のIDへ置き換え、別に保管する対照表で同じ患者の経過を追える設計は、匿名化とは限らない。個人情報保護委員会は、仮名加工情報を「他の情報と照合しない限り本人を識別できない状態」、匿名加工情報を「本人を識別できず、元の個人情報も復元できない状態」と分ける。作成元や削除情報を持つ事業者の仮名加工情報は原則として個人情報に当たり、第三者提供も原則禁止となる

状態 本人との結び付き 運用で見る点
元の個人情報 単独または容易な照合で本人を識別する 利用目的、取得、提供、安全管理の根拠を確認する
仮名加工情報 他の情報と照合しなければ本人を識別しない 対照表などの削除情報を分離し、第三者提供の制限を守る
匿名加工情報 本人を識別できず、元の個人情報を復元できない 特異な記述や連結符号を含む加工基準と公表義務を満たす

三つは連続する濃淡ではなく、適用される規律が異なる区分だ。「項目を伏せた」「匿名データ」という社内ラベルを付けても、法定の加工基準や運用条件を満たした証明にはならない。

再識別──効くのは一つの欄より項目の組み合わせ

再識別(Re-identification)は、加工後の記録を別の情報と照らし、元の本人を推定する行為を指す。生年月日、郵便番号、受診日時、診療科、まれな病歴が単独では広い集団を示していても、組み合わせると一人へ近づく場合がある。画像内の氏名表示、PDFのファイル名、作成者情報、自由記載に残った家族関係も、表の外にある識別経路になる。

準識別子(Quasi-Identifier)の危険度は、受け手が利用できる外部情報で変わる。米保健福祉省のHIPAA指針は、規則に沿う非識別化を専門家判定(Expert Determination)とセーフハーバー(Safe Harbor)の二つに分ける。専門家は受領者が利用できる外部データ、情報の安定性、各記録を他と見分けられる程度を考慮し、識別リスクが「非常に小さい」状態かを判定する。これは米国制度の基準で、日本の匿名加工情報にそのまま置き換えるものではないが、外部情報まで含めて評価する考え方は共通する。

項目確認、データ加工、権限管理、リスク試験を並べた工程図(イメージ)
加工は一度の欄削除では終わらず、共有先と利用環境を含むリスク試験まで続く。

加工工程──目的、欄、共有環境を一つの設計にする

米国立標準技術研究所(National Institute of Standards and Technology、NIST)は、非識別化を単独の加工技術ではなく、共有方法を含むガバナンスとして扱う。2023年9月に確定したNIST SP 800-188は、最初に利用目的と公開リスクを評価し、識別子の削除、準識別子の変換、合成データの生成から手法を選ぶよう求める。共有形態も一般公開、合成データ、照会インターフェース、保護された閉鎖環境に分け、測定可能な基準と再識別テストで結果を確かめる構成だ

  1. 目的と必要最小限のデータを定める。モデルが何を出力し、誰が使い、いつまで保存するのかを先に決める。目的が狭ければ、残す項目も絞れる。
  2. 識別経路を棚卸しする。氏名、患者番号、電話番号に加え、日付、地域、少数例、自由記載、画像内文字、ファイル名、中間生成物まで同じデータ辞書へ載せる。
  3. 目的に合わせて加工する。項目の削除、年齢や日付の一般化、仮IDへの置換、値へのノイズ付加、合成データへの変換を使い分ける。加工名から法的な区分を逆算しない。
  4. 対照表と鍵を分ける。追跡が必要な研究では仮IDと本人をつなぐ表を別の権限領域へ置き、担当者、利用条件、保存期限、操作記録を限定する。
  5. 想定する受領者で攻撃を試す。公開情報、組織内データ、既知の患者情報を受領者がどこまで持つかを置き、記録を本人へ戻せる余地を検証する。
  6. 分析価値を別に測る。日付の丸めや少数例の削除で、病気の分布、時間間隔、欠損率、医療AIの性能がどれだけ変わったかを記録する。

合成データも加工手段の一つだが、生成処理を通した事実だけで匿名性は決まらない。元データの一部を生成器が記憶する余地と、実患者の分布を保つかという品質問題は別々に残る。医療AIで合成データを使う場合も、訓練元から独立した試験と導入後監視が要る。

病院のデータベース、法令資料、権限管理を組み合わせた画面(イメージ)
日本では加工後の状態に応じて、仮名加工情報と匿名加工情報の規律が分かれる。

日本法──仮名は対照表を守り、匿名は復元経路を断つ

仮名加工情報では、氏名などを削除または復元性のない仮IDへ置き換える。作成元の事業者が氏名と仮IDの対照表を持つ設計はあり得るが、その表は削除情報として漏えいを防ぐ措置が要る。本人を識別する目的で他の情報と照合する行為は禁止され、法令に基づく場合などを除く第三者提供も原則禁止となる。院内や同一事業者の分析で同じ患者を時系列に追いたい場面では使いやすい一方、外部へ自由に渡す匿名データではない。

匿名加工情報の基準はさらに広い。個人情報保護委員会の現行ガイドラインは、氏名などの記述と個人識別符号に加え、元データと加工後データを結ぶ符号、本人の識別につながる特異な記述を削除し、データベースの性質に応じた追加措置を求める。容易な照合に使える氏名と仮IDの対応表は匿名加工情報の作成後に破棄し、取り扱う側が本人識別のために他情報と照合する行為も禁じる

匿名加工情報は一定の義務の下で本人同意のない第三者提供が認められるが、提供する項目と方法の公表、提供先への明示が要る。仮名加工情報を匿名加工情報として扱うには、匿名加工情報の加工基準を改めて満たす工程になる。呼び名の変更では済まない。

日本の公的資料を確認した範囲で、健康データの再識別リスクを一律に合格または不合格へ分ける単一の数値基準は、本稿の執筆時点で確認できていない。個人情報保護委員会の基準は、連結符号、特異な記述、データベースの性質を個別に見る構成だ。受領者、外部情報、利用環境が変われば、以前の評価をそのまま流用する根拠も弱くなる。

ノートパソコンで健康診断結果とプライバシー設定を確認する人物(イメージ)
生成AIへ健康資料を入力する前に、本文、画像、ファイル名とサービス側の利用条件を確かめる。

生成AIへ健康資料を入力する前の四項目

個人が健康診断結果や診療明細を生成AIへ入力する場面では、加工前のファイルが事業者の管理外へ出る。個人情報保護委員会が2023年6月に公表した注意喚起は、一般利用者の入力した個人情報が機械学習に使われ、他の情報と統計的に結び付いた後、正確または不正確な内容で出力されるリスクを挙げる。利用規約とプライバシーポリシーを確認し、入力内容を踏まえて利用を判断するよう求めている

  1. サービス側の扱いを確認する。入力の保存期間、モデル学習への利用、運営担当者の閲覧、委託先、削除方法が公開されているかを見る。
  2. ファイル全体を点検する。氏名、患者番号、住所、電話番号、バーコード、QRコードに加え、病院名、完全な日付、まれな病歴、画像内文字、ファイル名と作成者情報を確認する。
  3. 入力範囲を絞る。質問に必要な数値や文章だけを別に抜き出し、原本の画像やPDFを丸ごと送る必要があるかを見直す。
  4. 出力の用途を分ける。文章の整理と、診断・薬・治療に関する判断を同じ扱いにしない。診療上の判断は元の記録と正規の医療手順へ戻す。

これらは送信する情報量を減らす確認であり、公開の生成AIサービスを病院の医療情報システムと同じ管理環境へ変える手続きではない。本人以外の家族や患者の情報が含まれる場合、自分だけの判断で提供範囲を決められない点にも注意が要る。

医療AI事業の権限、監査記録、データ項目を画面で確認するチーム(イメージ)
組織のAI事業では、加工記録とアクセス管理、再識別試験、品質検証を同じ台帳で追う。

企業と病院が加工済みデータに残す管理記録

企業や病院が健康データを内部モデル、クラウドAPI、共同研究先へ渡す場合、最初に利用目的と法的根拠を確認する。個人情報保護委員会の生成AI向け注意喚起は、事業者が個人情報を含むプロンプトを入力するとき、特定した利用目的の達成に必要な範囲かを確かめ、本人同意がない個人データを応答生成以外に扱わせる場合は、サービス提供者が機械学習へ利用しないことなどを確認するよう示している。

事業の検収資料には、少なくとも次の記録が要る。

  • 目的とデータ根拠:モデルの用途、出力を受ける者、対象集団、利用目的、取得・提供の根拠、保存期限を記す。
  • データ辞書:直接識別子、準識別子、要配慮個人情報、自由記載、画像、ファイルと中間生成物を同じ一覧で管理する。
  • 加工履歴:削除、一般化、仮ID化、ノイズ付加の対象と理由を版ごとに残し、元データと対照表の管理者を分ける。
  • 受領者と権限:閲覧、照会、ダウンロード、再提供、削除の権限を定め、委託先、再委託先、データの保管場所を契約へ反映する。
  • 再識別試験:想定受領者が持つ外部情報を使い、記録の一意性、特異な項目、結合経路を検査する。共有先や公開範囲の変更時に再評価する。
  • 品質とモデル検証:加工前後の分布、少数集団、欠損、時間関係を比較し、AIの性能は独立したデータと実際の作業手順で別に測る。
  • 停止と事故対応:再識別の余地、誤送信、目的変更、権限異常が見つかったときの停止、削除、報告、通知の責任者を決める。

非識別化の評価とAIの性能評価を一枚の合否欄に統合すれば、片方の成功がもう片方の証明に見えてしまう。精密な受診日を月単位へ丸めれば再識別の手掛かりは減るが、時間間隔を使う予測には影響する。まれな症例を削れば一意性は下がる一方、その患者集団をモデルが学ぶ機会も減る。プライバシー、データ品質、臨床性能は三つの記録として残す必要がある。

よくある質問

加工後の健康データと外部情報を結ぶ線に警告が表示された図(イメージ)
再識別リスクは加工後のデータだけで決まらず、外部情報と受領者の能力で変わる。

氏名を削除すれば匿名加工情報になるのか
ならない。住所、生年月日などの組み合わせ、患者をつなぐ符号、特異な記述、データベース全体の性質を踏まえた加工が要る。元の個人情報を復元できない状態も要件になる。

仮IDへ置き換えた健康データを外部のAI企業へ渡せるのか
仮IDへの置換だけで自由な第三者提供が認められるわけではない。作成元が対照表や元データを持つ仮名加工情報は原則として個人情報に当たり、第三者提供は法令上の例外、委託、共同利用などの条件を個別に確認する必要がある。

匿名加工情報なら再識別リスクはゼロなのか
ゼロと表現するのは適切でない。日本法は本人識別と元情報の復元を防ぐ加工、識別目的の照合禁止などを組み合わせる。技術上のリスク評価では、共有先が持つ外部情報と分析能力、公開範囲が変わるたびに検証を更新する。

健康データを加工すれば医療AIの学習に使えるのか
加工はデータ利用の一つの関門にすぎない。利用目的、取得・提供の根拠、受領者、安全管理を確認し、加工で失われた情報と患者集団の偏りを測る。モデルの性能と安全性は独立した検証が要る。